LIFE-HEART MESSAGE
『歌人』の美学
与謝野晶子生誕130周年を記念して
Life-Heart Message.  2008.03.10.


 明治11年、大阪堺市の老舗(和菓子屋)の三女に生れた少女は、女学校卒業後、
店の手伝いのかたわら文学を志し、関西の機関紙に習作の詩を発表していたが、
まもなく創刊の「明星」の社友となる。
その主宰者与謝野鉄幹を知り、制作熱が急激に高まり、ついに処女歌集として異例の
世評を得た『みだれ髪』1巻を成立させた。

同書刊行直後、鉄幹と結婚して名実ともに「明星」の中心となった与謝野晶子。
その特異な歌風は多くの追随者を生む母体となった。
明治37年、戦争で旅順に出兵した弟を思い、「明星」に『あゝをとうとよ君を泣く
君死にたまふことなかれ・・・』ではじまる長詩を発表。

この詩は危険思想だと非難を浴びるが、晶子は「ひらきぶみ」という一文で、忠君愛国
のために死ねよ死ねよと論じるほうが危険であると反論。
自分は後の人のために笑われぬ『まことの心』を歌うのだと、その詩精神を述べている。

また晶子は、「私の歌はもとより素人の歌で・・・私は今日まで假の一度も専門歌人の列に
加わろうと考へたことが無く、私の歌は私自身の表現に終始していていればそれで
よいと思っています」と『しろうと』であり続けることが「創作の方法」であった。
「芸術は自己の群像である。一にも自己、二にも自己、三にも自己。絶対に自己。」と言った。

 歌集『舞ごろも』の序では「わたくしの生活はわたくしの命の焔の舞です。
わたくしはこのみずからの命の悲痛、激動、愛執、歓喜の舞のために、恥を超えて無い袖を
も振らねばなりません。
わたくしはこうして舞いながら、とにもかくにも人生開放の公会に馳せ参じる一人の
新しい踊り子でありたいと思っております」と語っている。

5男6女を生み育てながら、歌を詠み続け、歌境を深めていった。
子どもを「のんびりと清く素直に育てよう」「ひろく大きく楽天的に育てよう」と晶子は
童話も書いている。

「男子に寄食して労働を回避する」女に対して厳しい晶子は「私は家庭を愛する。
しかし家庭を以って私の生活の全部だとは考えない」国家や世界をより善くすることと、
家庭をより善くすることは切り離せないと、女性の社会参加を積極的に肯定している。

与謝野晶子を敬慕した堀口大学は『これは、かつて日本が持った、男性女性を通じて、
最大の天才者の一人であった。

女詩人としては、いまだ人類に類例のない第一人者であった。
・・・万葉古今以来の、日の本の歌のしらべの伝統は、晶子にいたって初めて完大成された
のであって短歌十数世紀の歴史は、一人の晶子を生むための歴史であったとも言ひ得る
のである。』と絶大なる賛辞を捧げている。

晶子は、生涯にわたって愛と若さの人であった。
「私は生きようと望む意欲を愛その物だと考えています」「人の『若さ』は百難を排して
福にする。

・・・それは一切を突破する力であり、一切を明るくする太陽である」悲観や不平にとらわれる
衰老した心は『鈍感』『臆病』『頑固』であるために未来を創造できない、と戒めている。

晶子は謳った・・・『獅子王に君はほまれをひとしくすよろこぶ時も悲しむ時も』・・・
・・・『劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ』・・・


未来創庵 一色 宏